祈りの家と強盗の巣

私はクリスチャンではありませんが、バチカン改革に挑み、全く臆することなく発言を続ける教皇フランシスコ(南米出身)を贔屓にしています。

昨年末も教皇フランシスコは、バチカン内からも反感を呼び寄せるようなことをストレートに言い放ちました。

洗礼式や聖体拝領、そして結婚・・・教会での秘Papa Franciscoサクラメントに金銭が介在するなど言語道断。司祭に経済的な野心があって良いはずはなく、キリスト教徒は価格リストなど見せられたら、それがいかに罪深いことかを勇気を持って司祭に告げるべきである。さらに「イエスは神殿内にいる商人たちを追い出し、わたしの家は祈りの家と呼ばれるのに、あなた方はそれを強盗の巣にしている」とマタイによる福音を引用して、止めを刺しています(拍手)

日本の仏教界は、アマゾンの「お坊さん便」が登場した昨年末「宗教をビジネス化している」と猛抗議したようですが、何故、利用者からの問い合わせが殺到したのかを胸に手を当てて考えるべきでしょうね。

日本仏教界に、教皇フランシスコのような革命的な人物が登場するまで、我々はアマゾンに頼るしかないのでしょうか (溜息)

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遺骨の忘れ物

先日、TVドラマ「深夜食堂」の映画版を観たところ、誰かが食堂に置き忘れていった「骨壺」を中心にプロットが組まれていたので、唸ってしまいました。実は、この意識的な「遺骨の忘れ物」というのは急増しているらしく、真似をする人が続出するのを警戒してか、警察はその忘れ物件数を公にしていないようです(それは電車の網棚や神社などに置き忘れられることが多いらしいですね)。

遺骨を捨てるという行為には、経済的に困窮している人が激増しているという背景があるのでしょうが、それよりも「人の死」にお金がかかりすぎる日本の葬儀全般を再考しなければ、このような問題は決して無くならないだろうと、つくづく思ってしまいます。

日本人の9割もが仏式で葬儀を行うというデータがあるわけですが、そもそも私たちはどのぐらい仏教というものを知っているのでしょうか。本当に仏教には「戒名」や「お墓」が必要なのでしょうか。たとえば「位牌」というものは、調べれば調べるほど仏教とは縁遠いもので、実は儒教儀式の名残ということが分かったりすると、もう拍子抜けしてしまいます。

いや、それがシンクレティズムであって日本独自の仏教なのだと言われても、別れの際に死者に思いを馳せる余裕すらなく、葬儀費用やお布施、弔問客への対応などで頭がいっぱいだとしたら、本末転倒。死者が浮かばれようがないと思うのです。さらに、「死」を「ケガレ」とは考えない筈の仏教式の葬儀で、弔問客に「清め塩」(これは神道ですよね)を配るというのも、何だかなぁ・・・と力が抜けてしまいます。

自分なりの死者の弔い方というのを強固に持っていないと、何となく謎の「しきたり」に従うハメとなったり、そしてそれが出来ない場合は電車の網棚へ忘れ物・・・という方向に走ってしまうのでしょう。

弊社のプロジェクトは葬儀とは何の関係もない筈なのですが、あまりにそういった悩みを打ち明けられる事が多いので(行きがかり上)供養には様々な方法があること、葬儀は必ずしも必要なものではない・・・というようなことまでセットで言及するケースが増えています。

私自身、その手の問題では酷い目にあっているので、個人的には筋金入りの葬儀不要論者です(笑)。戒名など間違っても受戒するつもりはありません。俗名のままで結構。自力で三途の川を渡ってみせましょう(途中で溺れても、自己責任!?)。

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未来の人たちへ

未来の人たちへ、何を伝え何を残して行くべきか。たとえば「家系図」などを残しても、時の経過というのは残酷なもので、「あなた」の事は何も分からなくなってしまうに違いありません。弊社では、何を残し何を伝えて行くべきかを(ソフト+ハードの両面から)的確にサポートして行きます。

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